古事記研究所・チョット小耳に挟んだ話
古事記に直接は関係ないけども、
知っていると古事記がより面白くなる、
チョット小耳に挟んだ色んな話を
思いつくままに
書き連ねていきたいと
思っています。

★目次★
■阿遲速雄神社 ■最古の写本 ■饒速日命 ■欠史八代
■温羅(うら)伝説 ■除福伝説 ■天之日矛=あめのひぼこ ■野見宿禰=のみのすくね
■敦賀の由来 ■大雀命の名の由来 ■倭の五王について ■弓月の君の伝説
■茨田の堤      



茨田の堤
仁徳天皇の時代に何度建設しても決壊を繰り返す、「茨田の堤」という堤があったんだそうです。
ほとほと困ってしまった天皇は、ある夜、神のお告げを聞ききました。
「この堤を完成させるためには、
武蔵の国の強頸(むさしのくにのこわくび)と
河内の国の茨田連衫子(かわちのくにのまったのむらじころものこ)の二人を
川の神に奉れば必ずや堤は完成するだろう。」
おお!なるほどーー!ってばかりに
さっそく天皇は二人を召しだして川の神に奉ることにしたんですね。
まぁ・・奉るといってもそれは体のいい「人身御供」!
それでも強頸のほうは素直にしたがって川に飛び込みました。彼の姿二度とは上がってくることはありませんでした。
ところがもう一人の衫子のほうは素直に人身御供にはならなかったんです。
彼はでかい瓢箪を両脇に抱えて川に飛び込むと
なんと恐れ多くも神に向かって
「おい!神!本当の神ならこの私を沈めてみよ!沈めることが出来なかったらお前は偽者の神だ!」
と叫んだんです。なんてやつ・・・(^^;
結局衫子は沈むことなく無事生還しました。
で・・・茨田の堤がどうなったかというと・・・
その後決壊することは無くなったそうです。
・・・・ちょっと釈然としませんよね・・・(苦笑)


弓月の君の伝説
秦氏の祖先とも言われている弓月の君、またの名を融通王は応神天皇の御世にこの天皇の助力により
一族の民122県を率いて倭国に帰化しました。
彼らは秦の始皇帝の子孫とも言われており中国より朝鮮半島を経て倭国に亡命してきたと言われています。
この一族は倭国に漢字、織物、金属加工などの高度な技術をもたらし、
大和で渡来の豪族として確固たる位置を築いていきました。
今でも秦氏の痕跡は大和のあちこちに残っています。
さてさて・・・応神天皇の時にやってきた渡来人と聞いて思い出す人があるでしょう(にやり)
そうそう!!ツヌガアラヒトとアメノヒボコ♪
特にアメノヒボコは記述から見ても絶対弓月の君でしょう〜〜!って思いたくなりません??
秦の始皇帝の子孫なんてのは私は眉唾っぽいなぁ〜(^^;と思いますが、
この時代に大陸からたくさんの技術者集団がやってきたのは間違いないのでは。
やっぱり技術をもってるってのは強いですよねぇ〜。


倭の五王について
倭の五王とは中国史書「宋書」や「梁書」に記述されている讃・珍・済・興・武の倭王達のことです。
珍は讃の弟、次に出てくる済は続柄不明、(「梁書」では珍の息子となっています) その次の興・武は済の息子という事になっています。
さて、ここでこの五王を当時の天皇に当てはめたらどうなるでしょう?
この事は色々な説があり様々な意見があるようです。
しかしその中でも大体一致している意見が「武」=「雄略天皇」です。
時代とか性格とかを当てはめますとこれはどうやら間違いないらしい。
で・・・この最後の「武」を基準に当てはめていきますと・・・。
興は武の兄弟だから「安康天皇」
済はその父親だから「允恭天皇」
ここからおかしくなってくるんですよね(^^ゞ
兄弟という記述にこだわると
讃・珍は「反正天皇」と「履中天皇」という事になるんですでけどね、
ここで困ってしまうのが「梁書」の記述。
親子なら「仁徳天皇」を珍として「応神天皇」を讃とするという説なんですが、 その次の讃・珍は兄弟と言う所で矛盾が出てきてしまいます。
讃・珍は兄弟というのは記述間違いで親子なんだ。
だから仁徳・応神でOK!とこの説を唱える方々はおっしゃるんですがね(^^;)
ナンデモカンデモキジュツミスデイイノカヨ・・・・
ヤマタイコクモソンナコトイッテナイカ・・・(-_-;)

さてさて・・・どちらが正しいのか?


大雀命の名の由来
彼が生まれた日に産殿に一羽の「木菟(ツク)」が舞いこんできたそうです。
またまったく同じ時間にやはり建内宿禰の内でも一人の男児が誕生していました。
そして同じように産屋に一羽の「鷦鷯(ササギ)」が舞いこんできていました。
その話を聞いた応神天皇はこれは大変な吉祥だから、お互いの鳥の名を取り替えて、子供達の名前にしようと言い出しました。
それで御子の名を「大鷦鷯皇子=おおささぎのみこ(*古事記では大雀と表記されています。)」とし、大臣の子の名を「木菟宿禰=つくのすくね」と名付けました。
って・・・ぎゃぁぁ〜〜!!あやしいぃぃ〜〜!!!(笑)
まったく同じ日に生まれた男児だけでも怪しいのに名前を取り替えたぁ〜?へっ!!
大体いくら大臣とはいえ、一般ピープルの子供と名前を取りかえるなんて!天皇のすることたぁ〜到底かんがえられねぇぜ!しかも自分から言い出しただとォォォ〜〜!!・・・すみません・・興奮してました(^_^;)へへへ・・・でもでも・・怪しいエピソードだと思いませんか?

敦賀の由来
敦賀・・即ち角鹿の地名の由来には古事記に載っている説とは違う由来もあります。
これは昔新羅の皇子で天之日矛の末裔ともいわれる 都怒我阿羅斯=つぬがあらしと、という人物がこの浜にやってきたため
「都怒我(つぬが)」→「角鹿(つぬが)」→「敦賀(つるが)」
って・・(≧∇≦)ノ彡☆
下手な伝言ゲームみたいですが・・・(苦笑)
そうそう、彼には角があったため「角がある人」が上記の名前になったとも言われています。
一般的には角のある兜をつけていたらしいですけど・・・
角があった・・というのもあり!と思いませんか・・・( ̄ー ̄)ふ・・

野見宿禰=のみのすくね
垂仁天皇の御世に当麻蹴速=たいまのけはや、という者がいた。彼は常々自分よりも強い物がいたらぜひ力比べをしたいと豪語していたので、天皇がその群臣に誰かいないか?とたずねたところ、出雲の国に「野見宿禰」という者がいるとの答えを得た。
彼等は天皇の御前で「相撲」をとって、どちらが強いかを競う事になった。 結果は野見宿禰の勝ち。当麻蹴速はアバラをめちゃめちゃに折られて、死亡した。
その後当麻の領地は宿禰に与えられ、彼はそのまま天皇に仕える事になった。
現在野見宿禰は「相撲の神」として両国に祭られているが、 彼の墓と言われているのは兵庫県の龍野市の小高い山の上にある。 彼は大和から出雲に帰る途中でこの地で亡くなったので、悲しんだ出雲の人々が大勢やってきて川からリレー式に石を山上まで運び墓を築いたといわれている。

天之日矛=あめのひぼこ
昔、新羅の国に阿具沼と言う沼があった。ある日一人の女がこの沼のほとりで昼寝をしていると不思議な光が彼女の陰を刺し貫き、彼女は程なく赤い玉を生んだ。この様子を見ていた一人の男は女に乞い願いてその玉を譲り受けた。
男はこの赤玉を肌身離さず持ち歩いていたがある時牛で食べ物を山に運んでいる途中でこの国の皇子である天之日矛とであった。 皇子はこの男に向って「お前はこの牛を殺して食べるつもりだろう。」と捕らえて牢獄にいれようとした。男がどんなに牛は運ぶ為の手段で決して食べたりはしない!と行っても信用してもらえなかった。とうとう男はあの赤玉を皇子に渡し、ようやく許してもらえた。 皇子が宮に持ちかえってその玉を床に置くと、たちまち麗しい比売となったので、彼女を后とすることにした。
比売は毎日様々な物を出しては皇子に賜ったが、ある日奢り高ぶった皇子にとうとう怒り、 「私はあなたのような卑しい男の妻となるような女ではないのです。私は私の親の国に帰ります。」 といって、密かに小船に乗って日本の難波の津に逃げてきた。 難波の比売碁曾神社(ひめこそじんじゃ)におられる、阿加流比売神(あかるひめのかみ)こそ、その方である。 (*別名を下照比売またはカヤナルミともいう)
さて、天之日矛は反省し彼女を追いかけてきたが難波の神は彼を追い払ってしまったので、彼は但馬の国に上陸し,そこで前津見という妻を得た。
その子、多遲摩母呂須玖=たぢまもろすく、その子、多遲摩斐泥=たぢまひね、その子、多遲摩比那良岐=たぢまひならき、その子が多遲摩毛理=たぢまもりである。
(この話は応神天皇の項でも出てきます。)

除福伝説
今から2200年ほど前の事です。現在の中国が秦と呼ばれていた頃、始皇帝とよばれる独裁者がいました。
彼はほしいものはすべて手に入れましたが、唯一つ「不老不死」だけは、手に入りませんでした。
そこへ「除福」と言うものが現れ、海の向こうの蓬莱山に行けば不老不死の妙薬が手に入りますと 進言し、始皇帝より命を受け、自ら3000人もの子供も含む男女をつれて、海に旅立ちました。
この除福は日本の「熊野」に漂着したとも、「富士」に漂着したとも言われています。 彼は日本で不老不死の薬を手に入れましたが、始皇帝の死を知り国へは帰らず、そのまま日本にとどまったと伝えられています。
この事を伝えているといわれる、「宮下文書」(別名を「富士文書」)という、謎の古文書があります。 なかなか面白いですよ^^。

温羅(うら)伝説
昔、温羅という鬼がいて、吉備の国の山の中に「鬼ノ城」を建てて、住みついた。
この鬼が里のものに大変悪さをするので、時の帝が御子である吉備津彦に鬼退治を命じた。
大変な苦戦であったが、吉備津彦はとうとう鬼の首をとる事に成功した。
が、この首が毎晩うなって里のものがおびえて眠れないので、土に埋め、その上に御堂を建てると 首はうならなくなった。
伝説では温羅は「雷・霧・雨」や「河川」を自在にコントロールし、小さくなったり、鳥や魚になったりして変身する事も出来た。といわれています。 また、温羅は別名を「吉備津火車」!!と呼ばれていたそうです・・・ふふふ・・チョット興味ある話でしょう( ̄ー ̄)にやり・・・。

欠史八代について
現在では二代綏靖天皇〜九代開化天皇までの八名を「欠史八代」と言って実際には存在しなかった天皇達として認識されている説が主流になっています。 これは、初代神武と十代の崇神を同一人物として考え、時間的矛盾をなくす為に八名を創造したと言う考えからきています。
ではなぜ時間的矛盾が出てきてしまったのでしょうか?
これは中国の陰陽思想の讖緯説から来ています。
まず暦の一回りする60年を一運(いちうん)とします。【これは現在でも還暦(暦が戻る)として残っていますよね】 そして21運を一蔀(いちぼう)としてこれを一つの節目とするのです。 これが1260年。第一のキーワードです。
第2のキーワードは十干十二支の辛酉(しんゆう)の年。この年は革命の起こる年とされているのです。
そこで大体1260年前の辛酉に神武元年を置かなければならなかったのです。 なにしろ初代天皇〜はつくにしらすすすめらのみこと〜ですから! これがBC660年・・・神武元年となりました。
まず元年ありき!!だったモンで時間がたくさん余ってしまったのではないか・・と、こういうわけです。

饒速日命はまたの名を天照国照彦火明命といいます。
天照・・・?そうあの女神天照大神と字面が一緒ですよね。
あの伊勢神宮には最初はニギハヤヒが祭られていた・・・らしいです。
が・・後に藤原不比等によって女神のアマテラスにおきかえられた・・・らしいです。(苦笑)
(彼女の名前はもともとは「大日靈貴=おおひるめのむち」と言います。)
これは当時の政治状況によるのですが、まあ・・早く言えば女神を神々のTOPに持ってくる事によって、その当時の女帝(持統天皇)の正当性ををより強固なものにしたかったのではないでしょうか?
古事記では意図的にかどうかはわかりませんが、このニギハヤヒに付いては、ナガスネヒコを裏切り密告して、神武に命乞いをしたように書かれています。ナガスネヒコも徹底して悪いやつにされてしまっています。これはニニギ=神武の正当制を強調したかったからではないでしょうか?

古事記の現存する、最古の写本は「真福寺本古事記三帖」です。
これは、1371年頃に(応安4年頃南北朝のころ)真福寺の僧「賢喩=けんゆ」が写した物です。
でもね、この古事記という本は謎の本で、編纂された頃にはほかの書物にはまるっきりその名を見せないのです。ようやく姿を見せるのが平安朝の頃(812年頃)の「弘仁私記」で、これは太安麻呂の子孫である、多人長が記録した物ですから、チョット手前味噌っぽい???(^^ゞ
また、「古事記」という書名は古い事を写したと言う意味ですが、もともと序文には「古事記」と名づける。という記載はありません。
だから太安麻呂が名づけたのか、後の命名であるのかは全くわからないのです(ーー;)う〜ん・・・
長い年月写し写されて・・伝わってきた古事記ですが、
まるで伝言ゲーム状態であちこち変えられたり、 足されたり、消されたりまたは全く悪気もなく誤字を書いたりして、変ってきた可能性も多々ありますよね・・・。
一説には足利義満は26回も改竄させたといわれていますしね・・(´ヘ`)
まさしく謎の本!!侮れないぞ☆古事記!!
また「古事記」は古くは「フルコトフミ」と呼ばれていましたが、現在は「コジキ」と読むのが一般的なようです。

先日、大阪市内の「阿遲速雄神社」の由緒書きを手に入れました。
阿遲・・?何処かで見た字だ・・?
おおおおおっ!!!そうこれは怒りの余り、どっかに飛んでいってしまって行方不明の あのアヂスキタカヒコネの神に関係する神社だったのです!

祭神:阿遲鋤高日子根神(迦毛大神)・草薙御神劔御神霊(八劔大神)
由緒一部抜粋
【阿遲鋤高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を拓き民に耕耘の業をさづけ 恩沢を たれ給ひ 父神大国主命の神業を補翼し給ふ 郷民その御神徳を忍び 摂津河内の国造り神として 御神恩を お慕い申し上げ 神いませしこの地の守護神として斎へまつると云い伝へるものにして・・・・(略)・・・古代は阿遲経宮=あぢふのみや又は浦明神と称され のち八劔大明神と尊称す。

なるほど・・・(ーー;)
河内に来てたとは・・・

あっそうそう!
八劔大神の由来は彼の「草薙剣」にあります。
天智天皇七年に新羅の僧「同行」によって、熱田神宮から神剣が盗まれるという事件がありました。
彼はそれを国に持ちかえろうとしたのですが、嵐に船が難破し難波の地に流されました。同行は それを神罰と恐れ、神剣を放り出し逃げたと去れています。これが地名となりこの辺りは現在”放出=はなてん”と呼ばれています。そしてこの地の人々は神剣を阿遲経宮に合祀奉斎し、後に神剣が熱田神宮に還されてからも、神剣の分霊はこの地にとどまりつづけたと伝えられています。
八劔大明神の名は享保八年に中御門天皇から贈られました。

「草薙剣」を「大国主の息子の神社」に祭るなんて・・・なんか・・あやしい( ̄ー ̄)ふっ・・・




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