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第三十四分室へようこそ!どうぞお付き合いの程よろしくお願いいたします。

允恭天皇

1、后妃皇子女
先帝の弟である男浅津間若子宿禰命=おあさづまわくごのすくねのみこと、は
遠飛鳥宮(とおつあすか)*1において政を行った。

この天皇と
意富本ド王(ドは変換できませんでした・・^^;)=おほどおう、の娘、
忍坂の大中津比売命=おしさかのおおなかつひめ、との間に誕生した御子は

木梨の軽王=きなしのかるのみこ
次に
長田大郎女=ながたのおおいらつめ
次に
境の黒日子王=さかいのくろひこのみこ
次に
穴穂命=あなほのみこと
次に
軽大郎女=かるのおおいらつめ(またの名を衣通郎女=そとおしのいらつめ)
(またの名を衣通というのはその美しさが衣を通してまでも光り輝いていた為である。)
次に
八瓜の白日子王=やつりのしろひこのみこ
次に
大長谷命=おおはつせのみこと
次に
橘大郎女=たちばなのおおいらつめ

御子は皆で九柱(9人)である。

*1、大和の飛鳥(河内の飛鳥のことを近飛鳥「ちかつあすか」という)


2、天皇の即位と氏姓の正定
この天皇は重い病を患っていた為、はじめは即位をかたくなに拒んでいた。
しかし、諸々の臣下達や大后達の強い要請にしぶしぶ即位することとなった。

この時、即位の祝いとして新羅から八十一艘もの船に貢物が届いたが
その船に大変薬に詳しい者が乗っていた。
名を
金波鎮漢紀武=こんはちむかむきむ*1
という。
彼の治療により、ほどなく天皇の病気は回復した。


さて、天皇は常々、家臣達の氏姓が乱れている事を憂いていた。
(本来は朝廷が下賜するものなのに、各々が勝手に嘘の氏姓を名乗ったりしていた)

そこで味白し(甘樫=あまかし)の
言八十禍津日=ことやそまがつひ*2の前で
探湯(くがたち)*3を行い正しい氏姓を定めた。

その後木梨の軽太子=きなしのかるのひつぎのみこ、の御名代として
軽部(かるべ)を定め、
大后の御名代として
刑部(おさかべ)を定め、
大后の妹の田井中比売=たいのなかつひめ、の御名代として
河部(かわべ)を定めた。


この天皇の御年、七十八歳(ななそぢまりやとせ)。
御陵は河内の恵賀の長枝*4にある。


*1、金は姓、名は武。波鎮は新羅の爵位。漢紀は新羅の王族の号。
*2、甘樫坐神社の祭神のうちの一柱。「禍津日」は虚偽を明らかにして正すという意味。
*3、探湯とは沸騰している湯の中に腕を入れて事の真偽を占う神事。
正しい事を言っている者は腕を入れても火傷を負わないが、
嘘を言っているものはたちまちにして腕がただれてしまうという。
*4、大阪府南河内郡

さて結構印象の薄い感じの允恭天皇ですが・・・
この人かなり曲者です(笑)
まず、この允恭までずーっと三代は兄弟継承なんですよね。
でも前の二人は60.64と結構長生き。
う〜ん・・・やっぱりかなり年齢的に無理があるような気がする・・・。
その上この人の名前「男浅津間若子"宿禰"命」
宿禰というのは臣下につける名称です。
怪しいでしょ〜〜(にやり
またまた、その上
なんだかんだとかなり皇位に付くのを固辞してますよね。
本当に固辞されたの??
拒否されてたんじゃないの〜〜〜なんて疑いたくもなります。
結局は新羅からやってきた舌をかみそうな名前の金さんに助けを借りて・・
貢モノ船もやってきてるし
かなり新羅よりの人間であった事は伺えますな。

そして皇位に付いたとたんの氏姓の整理に掛かります。
わざわざこういう文書に残すほどこの頃の氏姓はめちゃくちゃだったということですよね。
じゃぁ・・大王に連なる家々も・・・?

短い記述の割には色々と謎の多い天皇なのです・・・。


3、軽太子と衣通王=かるのひつぎのみことそとおりひめ
天皇がお亡くなりになった後、
次の皇位につくはずの軽太子は同じ母からうまれた妹の軽郎女(衣通王)と恋に落ちており、
その罪に人臣の心は太子から離れていった。*1

その頃に軽太子が読んだ歌
あしひきいの 山田を作り 山高み 下桶を走せ 下どいに 我がとふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 昨夜こそは 安く肌触れ
【山の田の下をはっている畝の様に隠れ隠れして、人目を忍んでまでも会いたい妹よ。いや私の愛する人よ。】

笹葉に 打つや霰の たしだしに率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 腐れば腐れ さ寝しさ寝てば
【私が愛しいあの人と寝てしまったばかりに人の心は離れてしまったけど、それでもいいさ。】

軽太子から離れていった人臣はその弟である、
穴穂御子=あなほべのみこ
に流れていった。
そしてその皇位継承権を奪うべく、彼らは着々と準備を進めていた。
身の危険を感じた軽太子は大前小前宿禰=おおまへこまへのすくね、の家に身を寄せて 戦いの準備を始めた。
この時、軽太子がこしらえた矢は中をくりぬいて銅を流しており、
この矢を名づけて「軽箭(かるのや)」と言う。

一方、穴穂御子も着々と戦いの準備を進めていた。
このとき穴穂御子のこしらえた矢は今の矢の原型となっており、
名づけて「穴穂箭(あなほべのや)」と言う。

そして大雨の降るある日、
とうとう穴穂御子は兵を興して大前小前宿禰の館を取り囲んだ。
堅固に閉じられた門の前で穴穂御子が読んだ歌は

大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ

この歌を聞いた大前小前宿禰は手を挙げ膝を打ちながら舞い踊りながら

宮人の 脚結の子鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ

と歌うと穴穂御子にいった。
「我が天皇の御子よ。兄御子と戦うのはおやめなされ。もしここで戦い、兄御子を殺せば必ず人に笑われますぞ。どうぞ私にお任せくだされ。」

結局この時は穴穂御子は兵を引き上げることになり、
後、大前小前宿禰は約束どおり屋敷内にて軽太子を拘束し
穴穂御子へ引き渡された軽太子は伊予に流された。


以下、捕らえられてから後に軽太子が読んだ歌

天飛む 軽の嬢子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の下泣きに泣く
【愛しい軽の乙女よ 泣くのならば 人に知られないようにこっそりと山の鳩の様に忍んで泣くのだよ。】

天飛む 軽の嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども
【愛しい軽の乙女よ、私がいなくてもしっかりとするのだよ。】

天飛ぶ 鳥も使いぞ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね
【空を飛ぶ鳥は私の使いだよ。鶴の鳴き声が聞こえる時は私の名を呼んでごらん。】

王を 島に放らば 船あまり いがえり来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言わめ 我が妻はゆめ
【この私は島に流されても、余った船があればいつかきっと戻るから、それまで誰か大切な私の妻を守っていておくれ。】


以下、悲しみの衣通王が読んだ歌

夏草の あひねの濱の 蠣貝に 足踏ますな あかしてとほれ
【愛しいあなた、濱の貝で足を怪我しないように、どうぞ夜が明けてから行ってらっしゃいませ。】

君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
【貴方が行ってしまってから、もう随分たちました。もう待つことが耐えられません。私から会いにいくわ。】

衣通王はとうとう軽太子を追って都を脱出した。
伊予で出会った二人はそこで共に自殺をした。

その時に軽太子が残した歌二首

隠り国の 泊瀬の山の 大峡には 幡張り立て さ小峡には 幡張り立て 大峡にし なかさだめる 思い妻あはれ 槻弓の臥やる 臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思い妻あはれ
【泊瀬*2の深い渓谷にあるかのように心を沈めてはいたが、将来を誓い合った愛しい貴女のことを寝ても醒めても思っていたよ。】


隠り国の 泊瀬の河の 上つ瀬に 齋杭を打ち 下つ瀬に 眞杭を打ち 齋杭には 鏡を懸け 眞杭には 眞玉を懸け 眞玉如す 吾が思ふ妹 鏡如なす 吾思ふ妻 ありと言はばこそに家にも行かめ 国をも偲はめ
【神聖な杭を打ったり、鏡を懸けたりして一生懸命、都に帰れる様に祈っていたのも貴女がそこに居たからだ。でも今は此処にいる・・・。もう都へなんて何の未練も無いよ】


*1、当時、異母兄弟との婚姻は認められていたが、同母の兄弟との婚姻はタブーとされていた。
*2、泊瀬(現在の奈良県磯城郡)は当時、火葬と墓のある土地であった。

歌の部分が多い事と恋愛もの(^^;)ということでかなりてこずりました(苦笑)
この二人の悲恋は割とご存知の方も多いのではないでしょうか(^^)
少しづつ違った形でたくさん話が伝わっているようです。
これは思うに当時こういう近親間での恋愛が横行していたからじゃないでしょうか?
特にやんごとなき人々は兄弟が一緒に育つ事は殆どありません。
そうすると、やはり「肉親」という感情はあまりわいてきませんよね。
それを戒めるつもりでこの悲恋を挿入したとか・・・。
ほ〜〜ら、こんなに哀れな末路になるよーみたいな(笑)



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