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第二十七分室へようこそ!どうぞお付き合いの程よろしくお願いいたします。

忍熊王=おしくまのみこ、の反逆
さて息長帯日売命は倭に帰るにあたって倭の国の人々の心のうちが疑わしいといって、 一つのはかりごとをめぐらせた。
彼女は喪船*1を1艘つくらせると御子をその船にのせ、
「御子はお亡くなりになりました。」
と振れ回らせた。

その頃倭では香坂王=かごさかのみこ、忍熊王=おしくまのみこ、が御子を狙って 斗賀野(とがの)*2の地で誓約狩*3をしていた。
香坂王がクヌギの木に登り獲物を探しているとそこに巨大な猪が現れた。
猪はそのクヌギの木の根元を掘り倒すと香坂王を食い殺してしまった。
しかし弟の忍熊王はこの神意を信じず、まったく怯むことなく 御子の喪船を襲った。

この時の忍熊王の将軍は
難波の吉師部の祖、伊佐比宿禰=なにわのきしべのそ、いさひのすくね
太子(ひつぎのみこ)の将軍は
丸邇臣の祖、難波根子建振熊命=わにのおみのそ、なにわねこたけふるくまのみこと

両軍いっぽも引かずの戦いが続く中、建振熊命は一つの謀を用いる事にした。
彼は伊佐比宿禰に向って
「息長帯日売命はすでにお亡くなりになられた!このまま我々が戦いを続ける理由は無い!」
と、叫ぶと目の前で弓を折り、投降するふりをした。
伊佐比宿禰はその言葉を信じ、自らの弓の弦をはずし、軍隊を引いた。

それを待っていた建振熊命は髪の毛の中に隠していた弓蔓を出すと弓にかけ、一斉攻撃にでた。
謀られたと知ったときはすでに遅く、忍熊王の軍は応戦しながらも撤退を繰り返し、 対に忍熊王と伊佐比宿禰は沙沙那美(ささなみ)*4にて追い詰められてしまった。

忍熊王と伊佐比宿禰は琵琶湖に漕ぎ出すと、

いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖に 潜きせなわ
【ああ、振熊に一つの痛手を負わす事も出来ずに大変悔しいが、 我々は 鳰鳥(におどり)のようにこの湖に潜っていこうではないか】

と詠って二人共に湖に身を投げた。

*1、柩を乗せた船
*2、兵庫県武庫郡
*3、神意をはかる為の狩り
*4、琵琶湖の南の方

やりましたねぇ〜〜・・モーレツ母さん!(爆)
彼女の行動から彼女の息子が実は王位継承者ではなかったという事が露見してしまいましたね(笑)
古事記にはキチンと皇后と書いてありながらその長男が勝ち軍で帰っていくのに 何故「倭の人々のこころ」を疑う必要があるのでしょう?あやしすぎるぅ〜〜!!
彼女はこのまま帰れば・・・というよりよそから大和入りすれば 攻撃され、排除される事がわかっていたのですね。
だって大和には正当な後継者がいたんですから!
ですから息子は死んだ、と偽り、 その上戦いにおいては自分さえも死んだと偽り卑怯な勝ちを収めています。
負けそうになったら、降参する振りをしておいて油断させて・・・なんて、ドラマでは 悪人のやることですよ(苦笑)
ま・・だいたい、こういう時正義の味方はカッコよく ひらりと身をかわして、止めをさし・・めでたしめでたし・・・となるんですが、 実際には負けてしまいました・・・(爆)
ここにおいて大和王朝時代は終わりをつげ、 新たに河内王朝とでもいうべき時代がやってくることになります。

気比の大神と酒楽の歌
さて、勝利を収めた御子たちだったが、その太子を禊しなければならないと言って、 建内宿禰は高志の前(こしのみちのくち)の角鹿(つぬが)に仮の宮を建てさせた。

この宮にてある夜、宿禰の夢に
伊奢沙和気大神命=いざさわけのおおかみのみこと、が現れた。
「私の名と御子の名を取り替えてくれぬか?」
宿禰は畏まって答えた。
「ありがたいお言葉でございます。どうぞ大神の思うままに。」
すると伊奢沙和気大神命は
明日の朝、名を取り替えた礼をしたいので浜に来いというと消えてしまった。

次の朝、宿禰と御子が言われるままに浜に出かけてみると、
浜に鼻を傷つけた入鹿魚(いるか)がうちあげられていた。
御子は
「これは神が私に食料を下さったに違いない。」
と言って喜び、この神の名をたたえて、
御食津大神=みけつおおかみ、と呼んだ。
今では気比大神=けひのおおかみ、と呼ばれている。

またこの時、浜は入鹿魚(いるか)の鼻から流れた血で染まったので、
この地を名付けて「血浦(ちうら)」という。
今は「都奴賀(つぬが)」と呼ばれている。*1

宮に帰ると母の息長帯日売命が酒を作って待っていた。
この時息長帯日売命が詠んだうた。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石たたず 少名御神の 神壽き 壽き狂おし 豊壽き 壽き廻し 獻りこし御酒ぞ 乾さず食せ ささ
【この酒は私がつくったのではありませんよ。常世の国にいます酒の神である、少名比古の神が造った酒ですよ。さあ!!めでたい!めでたい!祝おうではありませんか!酒盃が乾くまも無いくらいどんどん召し上がりなさい。】

この時に建内宿禰が御子の為に詠ったうた。

この御酒を 醸みけむひとは その鼓 臼に立てて 歌いつつ 醸みけれかも 舞いつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやにうた楽し ささ
【この酒を作った人は鼓を打ち鳴らしながら歌いながら踊りながら作ったのだろうか。この酒を飲むととても愉快な気持ちになりますね。】
この歌は酒楽の歌である。


さて・・・
この天皇(仲哀天皇)の御年、五十二歳(いそぢまりふたとせ)。
御陵は河内の恵賀の長江(かわちのえながのながえ)*2にある。

皇后の御年、壱百歳(ももとせ)
狭城の楯列(さきのたたなみ)*3に葬られている。

*1、現在の福井県敦賀
(この敦賀の地名の由来にはもう一説有名なものがあります。「ちょっと小耳」のページへ
*2、大阪府南河内郡
*3、奈良県生駒郡

さてさて無事に邪魔者を排除し尽くした神功皇后と建内宿禰は一安心です。
しかしながらやはり始めから大和に入るには色々と不都合があったのでしょう。
人心というものは力ではいかんともしがたいものです。
彼女達はまず福井県で様子をうかがい力を蓄える事にしたのでしょうね。
またここで行なわれた「名前替え」の事件は結構重要です。
前も書いたと思うのですが、名前というものは今の時代の人間が信じられないほど 重要な意味を持っていました。名前を知られるというのは自分自身を支配されるということに 値するのです。
ですから神と名前を変えた御子はここにおいて神となったということになるわけです。
(余談ですが、この御子・・つまり応神天皇は各地で「八幡大明神」としてあちこちで見かけますよね)
名前を変えた後にお祝をする時のお酒云々・・・のくだりも何気にあやしいですよぉぉ( ̄ー ̄)
わざわざスクナヒコが作った酒!と宣言しているんですからね。
スクナヒコは大和王朝の祖である天孫族に追い出されたオオクニヌシに協力した神様ですよ。
いわゆる古事記のもう一つの流れ・・・スサノオの流れに深いかかわりを持っている神様ですよね
そのスクナヒコが楽しんで作った酒を戴く・・・という事は・・
ふふふふ・・・あやしすぎるぅぅぅ〜〜(激爆)
あ・・取り乱しました・・すみません・・(^^;ゞ
そうそう・・神宮皇后の墓は奈良県・・つまり大和にあることになっていますが
実は本当は河内の和泉黄金塚古墳がそうではないか??ともいわれています。
私も彼女の墓が大和にあったというのは到底信じられないのでこちらを支持したいですね(^^)


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