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第二十一分室へようこそ!どうぞお付き合いの程よろしくお願いいたします。

垂仁天皇=すいにんてんのう

1、后妃皇子女

伊久米理毘古伊佐知命=いくめいりびこいさちのみこと は師木の玉垣宮(しきのたまがきのみや)*1において、政を行なった。

この天皇と沙本毘古=さほひこ、の妹の佐波遲比売命=さわぢひめ(またの名を沙本比売命=さほひめのみこと)との間に誕生した御子は
品牟都和気命=ほむつわけのみこと

また旦波比古多多須美知宇斯王=たにはのひこたたすみちのうしのみこ、の娘、比婆須比売命=ひばすひめのみこと、との間に誕生した御子は
印色入日子命=いにしきいりひこのみこと
次に
大帯日子淤斯呂和気命=おおたらしひこおしろわけのみこと
この御子その身丈一丈二寸、脛の長さは四尺一寸もあったという。*3
次に
大中津日子命=おおなかつひこのみこと
次に
倭比売命=やまとひめのみこと
次に
若木入日子命=わかきいりひこのみこと

また氷羽州比売命=ひばすひめのみこと、の妹、阿邪美の伊理比売命=あざみのいりひめのみこと、との間に誕生した御子は
伊許婆夜和気命=いこばやわけのみこと
次に
阿邪美都比売命=あざみつひめのみこと

また大筒木垂根王=おおつつきたりねのみこ、の娘、迦具夜比売命=かぐやひめのみこと、との間に誕生した御子は
袁邪辨王=おざべのみこ

また山代の大国の淵=やましろのおおくにのふち、の娘、苅羽田刀辨=かりたとべ、との間に誕生した御子は
落別王=おちわけのみこ
次に
五十日帯日子王=いかたらしひこのみこ
次に
伊登志別王=いとしわけのみこ

また苅羽田刀辨=かりたとべ、の妹、弟苅羽田刀辨=おとかりたとべ、との間に誕生した御子は
石衝別王=いしつくわけのみこ
次に
石衝比売命=いしつくひめのみこと(またの名を布多遲能伊理比売命=ふたぢのいりひめのみこと)
この比売は後に倭建命=やまとたけるのみこと、の后となった。

この天皇の御子の内、
印色入日子命=いにしきいりひこのみこと、は血沼池(ちぬのいけ)・狭山池(さやまのいけ)・日下の高津池(くさかのたかつのいけ)を作った。
また鳥取の河上宮(ととりのかわかみのみや)*2において、刀1千振を作り、これを石上神社(いそのかみじんじゃ)に奉納し、河上部(かわかみのべ)を治めた。

*1、奈良県磯城郡
*2、大阪府泉南郡
*3、当時の尺貫法は現在知られている曲尺法(かねじゃくほう)ではなく、高麗尺(こまじゃく)と呼ばれる寸法を使用していた。これは曲尺の約1.17倍になるので、一丈二寸といえば大体4mほどになる!

長々と奥さんと子供達の名前が並びましたが・・・(苦笑)
ポチポチと重要な名前が出てきてます^^。
一番に目に付くのはやはり身の丈4mの大男オシロワケでしょう!(笑)
彼は後に景行天皇となり、またヤマトタケルのお父さんでもあります。
そしてその妹のヤマトヒメはヤマトタケルにあの草薙剣を渡す「おば」なんですね^^。
またその兄であり、大后の長男でもある、イリヒコは遠く南大阪の地まで追いやられてしまっています。 オシロワケに恐れをなした兄が出ていったのか・・・?はたまた追い出されたのか・・・・?
ただ・・イリヒコが刀を奉納したのが石上神社と言うのが少々引っかかるでしょう・・・ふ・・( ̄ー ̄) 石上神社はあの物部の神社なんですよ・・・と言う事は・・・
オシロワケとイリヒコは古事記に流れる二つの流れにそれぞれ別れたと言う事になります。
アマテラスの流れとスサノオの流れ・・・
古事記には常にこの二つの流れが絡み合っているんですね・・・ふふふ・・・( ̄ー ̄)

2、沙本毘古王=さほひこのみこ、の反逆
天皇の后となった沙本比売命はある日、兄の沙本毘古から 自分と天皇とどちらの方がより愛しいか?とたずねられた。
彼女が「兄のほうがより愛しい」と答えると沙本毘古は比売にこういった。
「では、本当に兄である私の方を愛しているという証拠にこの小刀で寝ている天皇を刺し殺してしまいなさい。そして私と比売とでこの国を治めていきましょう」
そうして、彼女の手に八鹽折の紐小刀(やしおおりのひもがたな)*1を渡した。

そのよる何も知らない天皇が沙本比売の膝枕で寝ると、比売はその首を刺そうと三度も小刀を振り上げたが、どうしても彼女にはできなかった。
そしてはらはらとその首の上に涙をこぼした。
驚いた天皇が跳ね起きて、彼女にこうたずねた。
「今私はおかしな夢を見たよ。沙本の方*2 から大雨が降ってきて、錦の小さな蛇が私の首に巻きつくのだよ。これはなんの前兆だろう?」
この言葉に比売はとうとう泣き崩れて、すべてを天皇に白状した。

早速、天皇は軍をおこして、沙本毘古王を攻めた。
沙本毘古は驚いて、急ごしらえの稲城*3で応戦したが、もはや時間の問題であった。
それを知った沙本比売は兄を想う余り、宮の裏門から脱走し、兄の稲城へと駈け込んだ。
この時比売は孕んでおり、産み月となっていたので、子供だけは助けたいと思い、天皇にこの子だけはお返ししたい、と使者を送った。
それに対しての天皇の答えは
「その兄は憎いけれども、お前と子はとても大切に思っている。一緒に帰っておくれ。」
しかし彼女は自分は兄と運命を共にするといって、頑として戻る事を拒んだ。

天皇は沙本比売を大層愛しく思っていたので、子供を受け取りに行く機会に 彼女をもさらって来るように、(子を受け取りに行く)使者をできるだけ力自慢の者に命じた。
「よいか!子供を受け取る時に比売の衣でも髪でもどこでもいい、どこかを必ず掴んで引き出し、一緒に連れて参るように!」

しかし沙本比売はそのようなこともあるかと
髪はかつらにし、
手には、腐らせた玉の紐を三重に巻き、
衣は酒に浸して、ボロボロにしておいたので、
使者が手を掴むと腐った紐ですべり、
髪を掴むと抜け落ち、
衣を掴むとほろほろと砕け破れた。

こうして、使者はその御子だけを連れかえったのであった。

怒った天皇はその腐った玉の紐を作った者を大変憎み、その所有地を皆取り上げてしまった。
諺に「地得ぬ玉作(ところえぬたまつくり)」というのは、この事から来ている。(意味・・・褒賞を得ようとして、かえって罰を受ける事)

天皇はまだ沙本比売を諦めきれず、
燃える稲城に向って叫んだ。
「普通、子の名前は母親がつけるものだ!帰っておいで!」
しかし比売は
「燃える稲城にて誕生しましたので、火中(ほなか)に生まれた子。 本牟智和気=ほむちわけ、と名づけましょう。」
と答えるだけで帰る気配はなかった。
「では、この子は母なしでどうやって育てればよいのだ!」
「乳母と御付の物を二人おつけなさい。」
「では、私はお前なしでどうすればよいのだ!」
「旦波比古多多須美智宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ、の娘姉妹は大変忠実で美しいと聞いています。彼女達をお呼びなさい。」

こうして、沙本比売は燃え盛る稲城で沙本毘古と運命を共にした。

*1、何度も繰り返して鍛えた、鋭利な紐付きの小刀
*2、奈良県奈良市佐保・・・沙本毘古の住まいのあるところ
*3、稲をつんで作った急ごしらえの城

この項はチョットした恋愛物の漫画がかけますね・・(笑)

3、本牟智和気王=ほむちわけのみこ
天皇は、沙本比売の忘れ形見である、この御子を大変大切に育てたが、御子はその髭が胸に伸びるほどになってもまったく言葉を発する事ができなかった。天皇はこの事にいたく心を痛めていたので、御子が鳥をみて、口をパクパクさせただけで、その鳥を見れば声を出すかと、遠く越しの国までも追いかけさせたりもしたが、御子は少しも喋る様子を見せなかった。

そんなある日天皇は夢であるお告げを聞いた。
「我が宮を天皇の住まいのように修理をしたなら、御子は必ず喋るようになるだろう。」
喜んだ天皇は早速、何処の神か?と占わせた所、その祟りをなしている神は「出雲の大神」であるという。
そこで天皇は御子に供をつけて、出雲まで行かせる事にした。

占いで曙立王=あけたつのみこ、菟上王=うなかみのみこ、の二王(ふたはしら)を供に決め、
まず那良戸(ならと)*1に向うと、途中で跛(あしなえ)*2盲(めしい)*3に出会ったので、これは不吉であるといって戻ってきてしまった。
次に大坂戸(おおさかのと)*4に向うと、やはり途中で跛と盲に出会ったので戻ってきてしまった。
次には占いの通りに、脇の戸*5からでて、紀伊へ向うと無事出雲へ向かうことができた。

出雲に到着するとまず肥河(ひのかわ)に黒き巣橋*6を作り、仮宮を建てた。
次に奉りを行なうべく、出雲国造の祖、岐比佐都美=きひさつみ、を呼び 青葉を立て、食物を供えようとしたときに、突然御子が口を開いた。
「この河下にある青葉の山のように見える山は実は山ではない。あれは葦原色許男大神=あしはらしこおのおおかみ、*7を奉る神の祭場である。」
供の者たちは皆、御子がお告げの通りに口がきけるようになったので、驚き喜んだ。

その夜御子はこの土地の娘、肥長比売=ひながひめ、と供にすごしたが、夜中にふと彼女を見ると正体は蛇(おろち)であった。
御子とその一行は驚き恐れ、その場を逃げ出した。
肥長比売はその事を非常に悲しんで、海上を明るい光で照らす船で追いかけてきたので御子達は船を捨て山を越えて無事逃げ帰る事が出来た。

天皇は大神に非常に感謝し、供であった菟上王=うなかみのみこ、を引き返させて、その地に神の宮を 造らせた。

*1、奈良山を越えていく道
*2、足の不自由な者
*3、目の見えない者
*4、大坂山を越えていく道
*5、大きく迂回をする道
*6、皮のついたままの丸太で作った橋
*7、大国主の別名

燃え盛る炎の中で生まれたホムチワケはオオクニヌシに祟られてました!!
と・・言う事は、前項の恋愛物もただの恋愛がらみではないかもしれませんね・・・ふむ・・

なんと大国主は前の祟神天皇とこの垂仁天皇と二代続けて祟ってます。
今回は御子自らが出雲まで出向いていくのですが、行った先で不思議な出来事に遭遇してますね。
御子の声が出たのもそうですが、「オロチ」の比売が「海を明るく照らす船」で追いかけてくる! と言う所です・・・その為海上に逃げる事は出来ず、山の中に隠れながら帰ってきたと言うんですよ! これは!!またSFになってきましたが、(苦笑)普通じゃないと思いませんか??あやしい・・( ̄ー ̄)・・・ふっ
しかし、その後せっかく逃げてきたのにまたウナカミは戻らされてます^^;。 無事に神の宮を造営できたということは、比売の怒りは解けていたのでしょうか?

4、円野比売=まとのひめのみこと
さて、天皇は先の沙本比売の遺言通り、
旦波比古多多須美智宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ、の娘達を宮に呼ぶ事にした。
美智宇斯王は
比婆須比売命=ひばすひめのみこと
弟比売命=おとひめのみこと
歌凝比売命=うたごりひめのみこと
円野比売命=まとのひめのみこと
の4人の娘全員を天皇に差し出したが、
天皇は「下の二人は美しくない。」といって、
比婆須比売命=ひばすひめのみこと、弟比売命=おとひめのみこと、のみを宮に残し、
歌凝比売命=うたごりひめのみこと、円野比売命=まとのひめのみこと、は実家に返してしまった。

その帰り道、円野比売は
「同じ姉妹なのに、姿が美しくないといって、返されてしまうなんて恥かしい。」と言って
木の枝に取り懸がって(首をくくって)死のうとした。
その場所を名づけて懸木(さがりぎ)といったが、今は相楽(さがらか)*1と言う。
またある淵を通る時、遂に円野比売は深い淵へと墜ちて死んでしまった。
それゆえ、その地を名づけて墜国(おちくに)といったが、今は弟国(おとくに)*2と言う。

*1、京都府相楽郡(そうらくぐん)
*2、京都府乙訓郡(おとくにぐん)

この件は前にあった「石長比売」のお話に似ていますね。
古事記には時にたとえばなしに交えていろんなメッセージを織り込んであります。
この話には一体何がこめられているのでしょう?
石長比売の時には長命を失いましたが、この時は一体何を失ったのでしょうか・・・。

5、多遲摩毛理=たじまもり
この天皇の御世に多遲摩毛理=たじまもり、と言う男がいた。
多遲摩毛理は天皇の命で、常世の国*1に「非時の香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」*2を 求めて旅へ出た。
そうしてようやく、木の実を手に入れ、その実を繋ぎ輪にしたものと、枝につけたままの実とを持ち帰ってきたが、その時天皇はすでに亡くなっていた。
多遲摩毛理はその木の実の半分を大后の陵に献上し、もう半分を天皇の御陵に捧げると、 「只今、常世の国の香の木の実を持ちかえりました!」と叫び、そのまま御陵で泣き叫びつづけ、遂に死んでしまった。
この「非時の香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」は現在の「橘(たちばな)」である。

天皇は大后の亡くなった時に、石祝作(いしきつくり)*3と土師部(はにしべ)*4を定めた。
大后は狭木の寺間の陵に葬られた。

この天皇の御歳、一百五十三歳(ももあまりいそぢまりみとせ)。
御陵は菅原の御立野の中にある。

*1、海の彼方に遠く離れた不老不死の国
*2、一年中よい香りのする木の実。不老不死の力があると信じられていた。
*3、石棺を作る者、その一族
*4、人柱の代わりに赤土で種々の物(埴輪)をつくる者、その一族

このタジマモリについては、彼の祖先の天之日矛に面白いお話がありますので こちらへ(⌒∇⌒)/
さて、埴輪についてですが、これは前の祟神天皇のときにもチョットふれましたが、当時天皇及びそれに準ずる者が亡くなるとその者に仕えていた物達は皆一緒に埋められる事になっていました。
これを余りに酷いと思った「野見宿禰=のみのすくね」というものが垂仁天皇に提案して、作ったのが始まりと言われています。この功績により、彼は「土師臣=はじのおみ」の名を賜りました。
野見宿禰についても、どうぞ こちらへ(⌒∇⌒)/

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