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崇神天皇=すじんてんのう
1、后妃皇子女
御眞木入日子印恵命=みまきいりひこいにえのみこと は師木の水垣宮(しきのみずがきのみや)*1において政を行なった。

この天皇と木国造の荒河刀辨=あらかわとべ の娘、遠津年魚目目微比売=とおつあゆめまくわしひめ との間に誕生した御子は
豊木入日子命=とよきいりひこのみこと
次に
豊すき入日売命=とよすきいりひめのみこと
また尾張連の祖である意富阿麻比売=おおあまひめ との間に誕生した御子は
大入杵命=おおいりきのみこと
次に
八坂の入日子命=やさかのいりひこのみこと
次に
沼名木の入比売命=ぬなきのいりひめのみこと
次に
十市の入命比売=とおちのいりひめのみこと

また大毘古命の娘、御眞津比売命=みまつひめのみこと との間に誕生した御子は
伊玖米入日子伊沙知命=いくめいりびこいさちのみこと
次に
伊邪能眞若命=いざのまわかのみこと
次に
国片比売命=くにかたひめのみこと
次に
千千都久和比売命=ちちつくわひめのみこと
次に
伊賀比売命=いがひめのみこと
次に
倭日子命=やまとひこのみこと

2、神々の祭祀
この天皇の御世に疫病が流行したくさんの人民が死んだ。
天皇がこの事に心を痛めていたときに夢に大物主大神が現れた。
「これは私の祟りであるぞ。意富多多泥古=おおたたねこ に我を祭らせたなら、国に平安が訪れるだろう。」
早速、早馬を四方に放ち「意富多多泥古」なる人物を捜し求めたところ、河内の美努村*2で見つかった。
そこで天皇が赴いて、
「お前は誰の子であるか?」と、問うと
「私は、大物主大神と陶津耳命=すえつみみのみこと の娘、
活玉依比売=いくたまよりひめ との間の子、
櫛御方命=くしみかたのみこと の子、
飯肩巣見命=いいかたすみのみこと の子
建甕槌命=たけみかずち の子、
意富多多泥古である。」
その言葉を聞いて天皇は大変喜んだ。

意富多多泥古は御諸山の意富美和(みもろやまのおおみわ)で大神を祭る神主となった。
また、伊迦賀色許男命=いかがしこおのみこと に命令して天の八十平瓮(あまのやそびらか)*3をつくり天神地神の社に祭った。
また宇陀の墨坂神*4に赤色の楯矛を祭り
また大坂神*5に黒色の楯矛を祭り
坂の御尾の神、河の瀬の神を一つ漏らさず悉くに幣帛(みてぐら)を祭った。

これにより、疫病は去り、国は平安となった。

3、三輪山伝説
この意富多多泥古という人物が神の子といわれる所以

その母、活玉依比売は大変美しい方であった。ある夜、大変美しい男性が比売の部屋へ忍んできた。
夜になるとやってきて、朝が来る前に帰ってしまうので比売の二親は気付かなかったが、僅かの間に 比売が孕んだので怪しく思った二親が比売を問い詰めた。
「姓名も住まいも知らない麗しい殿方が毎夜尋ねていらっしゃるのです」
比売の二親はその正体を知ろうとして一計を比売にたくした。
「良いですか。赤土を床にまき*6、その殿方がお帰りになるときに衣の裾に糸をつけた針を刺しておきなさい。」
その夜、比売が教えられたようにしておき、朝に糸の後をたどっていくと、その糸の先は三輪山の神の社に つながっていた。
この事によって神の子としれたのである。

この時糸の端を糸巻きに3わ残したのでこの地を「みわ」と名づけたのである。

この意富多多泥古は鴨君の祖である。

*1、奈良県磯城郡
*2、大阪府中河内郡
*3、多くの平たい素焼きの皿
*4、奈良県宇陀郡
*5、奈良県北葛城郡
*6、赤土を巻くのは魔除けの為

4、建波邇安王=たけはにやすおう の反逆
また、この天皇の御世に四道将軍(大毘古命・建沼河別命・日子坐王・吉備津彦)をつかわしてまつろわぬ国々を悉く平定していった。
ある日大毘古命が高志国からの帰りに山代の幣羅坂(やましろのへらさか)で不思議な少女が歌うのを聞いた。

御眞木入日子はや 御眞木入日子はや 己が緒を 盗み死せむを 後つ戸よ い行き違い 前つ戸よ い行き違い 窺はく 知らにと 御眞木入日子はや
【ミマキイリヒコは 後ろから命を狙われているのにも こっそり覗かれているのにも、全然気付かない・・・ああミマキイリヒコよ】

怪しんだ大毘古命が少女に歌の意味を尋ねると、
「私は何もいいません。ただ歌うだけ。」
と、そう言うとたちまち消えてしまった。

大毘古命は急いで天皇にその事を進言した。
天皇はその歌を聞くといった。
「この歌は山代の国に住むわが兄、建波邇安王が邪心を起こしたという御告げに違いない。
大毘古命よ!出陣である。」

副将軍に日子国夫玖命=ひこくにぶくのみこと をつれて山代に向うと、
建波邇安王と和訶羅河(まからかわ)*1を挟んで、にらみ合った。
ここで日子国夫玖命が言った。
「そちらから先にまず、忌矢*2を放つが良い」
だが、建波邇安王の射った矢は当らなかった。
次に日子国夫玖命の放った矢は建波邇安王を見事貫き、建波邇安王はその場で死んだ。
彼の軍はそれを見て悉く逃げ出したが、その逃げる兵を追い攻めて苦しめ、兵たちは皆大便を漏らした。
ゆえにその地を屎褌(くそばかま)と名づけた。今は久須婆(くすば)という。
またその兵たちを切り捨てれば、皆鴨の如く川に浮いたので、その川を名づけて鴨河という。
また、兵たちを切り葬り去ったので、その地を名づけて、波布理曾能(はふりその)という。

こうして悉く敵を打ち破り、天皇に報告した。

5、初国知らしし天皇=はつくにしらししすめらのみこと
この天皇の御世にはじめて、税(みつぎもの)が定められた。
また人民は富栄え、天下は太平であったのでその御世をたたえて、彼の天皇を
「初国知らしし御眞木天皇=はつくにしらししみまきすめらのみこと」*5と呼んだ。

またこの御世に依網池*3と軽の酒折池*4を作った。

この天皇の御年、百六十八歳(ももあまりむそぢまりやとせ)。
御陵は山邊の道の勾の岡の上(やまのべのみちのまがりのおかのうえ)にある。

*1、今の木津川
*2、戦いのはじめに御互いに射合う神聖な矢
*3、大阪市住吉区
*4、奈良県高市郡
*5、初めて国の形を作り、治めた天皇という意味

崇神天皇を一気に言ってしまいました(汗)
ここは最後まで読んでいただいたほうが説明がしやすいかなぁ〜と思ったので・・・(^^ゞ
この天皇は良く神武と同一人物視されている天皇です。
二人とも同じ「はつくにしらししすめらのみこと」なんですねぇ〜^^。
ここでは面白い(?)事件が二つも起こっています。一つはオオタタネコの件☆
ここでは色々と怪しい例えが出てきます( ̄ー ̄)。
まず大物主!これは大国主の息子とも本人の和魂(にぎみたま)とも言われます。彼が祟るという事は大和朝廷が 何を出雲に対して行なったかがおのずとばれてしまうというものです・・・。
またその子孫が河内にいたというのも・・・ぐふふふ・・わけありぃ〜〜・・
神武のあの戦いを思い出しますねぇ〜・・ひひひ・・
三輪山伝説は良く昔話なんかでも出てきますが、この話は箸墓に埋葬されているという「ヤマトトモモソヒメ」の逸話にも良く似ています。
このヤマトトモモソヒメは書紀では、謎の少女の変わりにタケハニヤスオウの反逆を神託で予言したことになっています。卑弥呼ではなかったか?といわれもするこの女性・・・う〜ん(ーー;)謎ですねぇ。

彼の逸話の一つとして、「人垣」があります。彼は自分が死んだ時、墓の回りに多くの人を首だけを出して埋めて垣根を作らせたといいます。この埋められた者たちは三日三晩泣き叫びつづけ、余りの残酷さに次の天皇となった垂仁天皇は人間の代わりに「埴輪」を作ることを思いついたということです。
なるほど確かに彼の部下の戦い方を見ても残酷そのもの!!
かなりアクの強い人間だったように感じますねぇ〜・・・。
余談ですが・・・「崇神天皇」って、祟り神(たたりかみ)って書くんですよねぇ・・・( ̄ー ̄)にやり・・・







#実は先日掲示板に以下のようなご質問を頂きました。
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ところで質問ですが、
崇神天皇のところで「祟り神」って書いてありますけど、
「祟(たたる)」と「崇(あがめる)」は違う字ではないでしょうか?
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以下はその際の私の回答です。
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>祟ると崇める
ご指摘ありがとうございます。
そうなんです。
文字そのものは違う字でもあり、意味も両極端に位置するものなのですよね(^^;
ご指摘は全く正鵠を射ているのですが
この二つの文字、あまり似ているのでわざとその文字をあてて
その反対の意味を込めた・・という説もあるのですよ。
日本人らしい(?)影に込めた意味・・・ふふふ・・
私はこれが物凄く好きです(笑)
また良くある怨霊を神として封じる御霊神社のように
敬い崇めると崇め恐れるは心的に良く似た位置にあるんですね。
研究所での記載は言葉足らずになってしまっていて誤解を招いてしまってゴメンなさい。
この「祟=崇」はこの崇神のほか、あの崇徳院にも使われていますデス。
この事からもこの字に込めた何かを感じませんか・・( ̄ー ̄)ニヤリ
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思いつくままに書いておりますのでしばしば言葉足らずの表現や暴走があります(^^;
ご質問くださった「珈琲」さま。
本当にありがとうございました。
2006.5加筆

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